◇ 旅と将棋                     川崎 弘



 ロシアの秋は美しい。黄金色の森に落ち葉が音もなく舞う。
 もう十余年も前になる。十数人のツアーの一員として、モスクワ郊外にい
た。シリア、ヨルダンへの旅の途中、乗り継ぎの都合でモスクワに降りたので
ある。
 白樺林の中に幾つもの低層アパート風の棟が散在している。ここはオリン
ピックの時の選手村だったそうだ。かっては何百もの選手たちで賑わったろ
う。いまはガランとして、食堂の他はこれという設備もない。
 その日、私たちは丸一日の空白を持て余していた。
 トランジット制度を利用して、赤の広場など市内観光の予定が、理由の説明
も全くないまま不意に取り消されてしまった。代わるべき行き先もなく、外出
さえ禁止された。異境、まして極度に閉鎖的だった冷戦下のソ連(当時)での
こと、空しく宿舎で時を過ごすしかない。ソ連邦が崩壊する直前で、市内に大
規模なデモがあったため、とは後で知ったことである。
 当然ながら一行のイライラのボルテージは上がる一方だ。だが、私とKさん
だけは違っていた。
 二人の間には、ボール紙を切り抜いて急拵えした駒と白紙に線を引いた盤。
そう「将棋」である。
 将棋小説なんかでは、海外で将棋相手が出現する場面がよくある。その相手
がハイジャック犯というのさえ読んだ。だが、現実には二十人程度の団体で、
将棋相手がいることなど期待できないし、第一初対面の相手の趣味など知る由
もない。たとえ将棋を指せる人がいても力が違いすぎる。
 それがこの時は、まさに手頃な相手がいた。たまたま私が持っていた大山名
人の扇子をみて、声をかけてきたのが新潟のKさんだった。三段の免状がある
という。
 昼食を挟んで六時間くらいはブッ通しで指したろうか。やっと出発時間がき
たときは、嬉しさ半分、もっと指したいが半分だった。観光が始まればもう指
す機会もないだろうナ〜〜。
 だが、なんともう一度それが生じた。
 ヨルダンのアンマン発のアエロフロートが出発遅れ。当時は航空便の多少の
遅れなどは珍しくはなかったが、この時はゲート前の行列で立ったまま延々と
待たされたのには、流石に気分的に参ってしまう。
 どちらからともなく「盤なし将棋をやってみますか」となった。
 最後に盤なしでやってからもう何十年も経つ。その頃の私は、結核で療養所
にいて、隣のベッドにいた若いT君も将棋好きだった。TVはまだ一般化せず
ラジオ将棋の時代だったから、自ずと頭の中で駒が動くようになっていた。
 特効薬もなく安静が最重要視された。午前、午後の各二時間はベッドでの安
静が強要され、その間は読書も禁止されるほどだった。だが、私たちは天井を
見つめて盤なし将棋を指すのを常とした。看護婦がときどき巡回するが、判
りっこない。もっともかなりの精神集中が要るから、身体によかろう筈はない
が気にはしなかった。
 さて、アンマンでの盤なし将棋は、7六歩/3四歩/6六歩〜〜と相矢倉で
進行した。真剣な表情で壁をにらみながら、1六歩、6四銀なんて口走ってい
る二人。周りの一行からは、「あれで判っているの?」の呆れ声が出たりする
が、当人はけっこう真剣なのである。
 五十手はさしたろうか。中盤の勝負どころで、とうとうKさんの角が、「お
飛び越し」をやり、大笑いになって中止。搭乗が始まったのはその直後であ
る。
 あとで棋譜を復原してみるとチャンと指してあった。これ以後、年二回は行
く海外旅行では、手荷物に盤駒を忍ばせているが、好敵手に出会うことは二度
となかった。
 盤寿も目前のいま、好きな詰将棋さえ十手の先も読めなくなっている。あれ
が生涯最後の盤なし将棋だったろう。





inserted by FC2 system